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かしょく

花燭

太宰 治

1939(昭和14)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,501 字 · 38 页

青空文庫

愛犬の蚤を一匹残さずとるよう命じたことさえあった。二年ほど、かれの家にいたろうか。ふっといなくなって、男爵は、いないな、と思っただけで、それ以上気にとめることはなかった。そのとみである。男爵は、ぶるっと悪感を覚えた。髪が逆立つとまでは言えないが、けれども、なにか、異様にからだがしびれた。たしかに畏怖の感情である。人生の冷酷な悪戯を、奇蹟の可能を、峻厳な復讐の実現を、深山の精気のように、きびしく肌に感じたのだ。しどろもどろになり、声まで嗄れて、

「よく来たねえ。」まるで意味ないことを呟いた。絶えず訪問客になやまされている人の、これが、口癖になっているのかも知れぬ。

相手の女も、多少、興奮している様子であった。男爵のその白痴めいた寝言を、気にもとめず、

「新やんこそ、よくおいで下さいました。あたし、ゆっくりお話申しあげたいのですけれど、いま、とっても、いそがしいので、あ、そうそう、九時にね、新橋駅のまえでお待ち申して居ります。ほんの、ちょっとでよろしゅうございますから、あの、ほんとに、お願い申しあげます。おいやでしょうけれど、ほんとに。」あたりに気をくばりながら、口早に低くそう懇願する有様には、真剣なものがあった。