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たでくうむし

蓼喰う虫

谷崎 潤一郎

「大阪毎日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月17日<br>「東京日日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月18日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 110,066 字 · 216 页

青空文庫

忍び返しの塀の向うは、まるで人なぞ住んでいないように、いつもしーんとしてカタリと云う物音一つするではなく、ちょうどさびれた田舎の町の士族屋敷へでも行ったような佗びしさであった。ただいつ頃のことであったか、そこからおりおり琴の音につれてかすかに唄うこえが洩れた。その声の主は「福ちゃん」と云う児で、器量よしと云う評判が高かったから要も前から耳にしてはいたものの、それまで一度も顔を見たことはなかったし、見たいと云う気もなかったのを、或る日偶然二階から覗いたとき、多分夏のたそがれであったのだろう、縁側の閾際に座布団を敷いて明け放された葭簀に背中をもたれながら、蚊柱の立つ夕闇の空を見上げているほの白い顔が、ちらと此方を向いた。幼心にもその美しさに胸をつかれて凄い物でも見たように慌てて首を引っ込めてしまったから、どう云う目鼻立ちであったか纒まった印象は残らないながら、初恋と云うにはあまりに淡いあこがれに似た快感が、そののち暫く子供の夢の世界を領した。それは少くとも要の中にあるフェミニズムの最初の萌芽だったであろう。彼は今でもその時の彼女が幾つぐらいの歳ごろであったか見当がつかない。