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たでくうむし

蓼喰う虫

谷崎 潤一郎

「大阪毎日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月17日<br>「東京日日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月18日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 110,066 字 · 216 页

青空文庫

この場合を想像すると居たたまらないような気がして、やっぱり妻の云うことを聴いておけばよかったと思った。

しかし一方、ややともするとその不愉快を打ち忘れて、再び舞台の表現にうっとりさせられる瞬間があった。前の幕ではひとり小春の姿にばかり心を惹かれたのに、今度の幕では治兵衛もよし、おさんもいい。紅殻塗りの框を見せた二重の上で定規を枕に炬燵に足を入れながら、おさんの口説きをじっと聞き入っている間の治兵衛。―――若い男には誰しもある、黄昏時の色町の灯を恋いしたうそこはかとない心もち。―――太夫の語る文句の中に夕暮の描写はないようだけれども、要は何がなしに夕暮に違いないような気がして、格子の外の宵闇に蝙蝠の飛ぶ町のありさまを、―――昔の大阪の商人町を胸にえがいた。風通か小紋ちりめんのようなものらしい着附を着ているおさんの顔だちが、人形ながら何処か小春に比べると淋しみが勝ってあでやかさに乏しいのも、そう云う男にうとまれる堅儀な町女房の感じがある。そのほか舞台一杯に暴れ廻る太兵衛も善六も、見馴れたせいか両脚のぶらんぶらんするのが前の幕ほど眼ざわりでなく、だんだん自然に見えて来るのも不思議であった。