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ふじだなのかげから

藤棚の陰から

寺田 寅彦

「中央公論」1934(昭和9)年9月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,285 字 · 17 页

青空文庫

それはとにかく、この振り出し薬の香をかぐと昔の郷里の家の長火鉢の引き出しが忽然として記憶の水準面に出現する。そうして、その引き出しの中には、もぐさや松脂の火打ち石や、それから栓抜きのねじや何に使ったかわからぬ小さな鈴などがだらしもなく雑居している光景が実にありありと眼前に思い浮かべられる。松脂は痰の薬だと言って祖母が時々飲んでいたのである。

この煎薬のにおいと自分らが少年時代に受けた孔孟の教えとには切っても切れないつながりがあるような気がする。

時代に適応するつもりで骨を折って新しがってみても、鼻にしみ込んだこの引き出しのにおいが抜けない限り心底から新しくなりようがない。

十二

四五年会わなかった知人に偶然銀座でめぐり会った。それからすぐ帰宅して見るとその同じ人からはがきが来ていた。町名番地が変わったからという活版刷りの通知状であったが、とにかく年賀状以外にこの人の書信に接したことはやはり四五年来一度もなかったはずである。

そのはがきを出したのは銀座で会う以前であったということは到着の時刻からも消印からも確実に証明された。

この偶然な二つの出来事の合致が起こるという確率は正確には計算しにくいが、とにかく千分の一とか二千分の一とかいう小数である。