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きょこうのはる
虚構の春
「文学界」1936(昭和11)年7月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 54,586 字 · 108 页
あのときの一種崇高の感激は、生涯にいちどあるか無しかの貴重のものと存じます。ああ、不要のことのみ書きつらねました。おゆるし下さい。高橋君は、それ以後、作家に限らず、いささかでも人格者と名のつく人物、一人の例外なく蛇蝎視して、先生と呼ばれるほどの嘘を吐き、などの川柳をときどき雑誌の埋草に使っていましたが、あれほどお慕いしていた藤村先生の『ト』の字も口に出しませぬ。よほどの事が、あったにちがいございませぬ。昨年の春、健康いよいよ害ねて、今は、明確に退社して居ります。百日くらいまえに私はかれの自宅の病室を見舞ったのでございます。月光が彼のベッドのあらゆるくぼみに満ちあふれ、掬えると思いました。高橋は、両の眉毛をきれいに剃り落していました。能面のごとき端正の顔は、月の光の愛撫に依り金属のようにつるつるしていました。名状すべからざる恐怖のため、私の膝頭が音たててふるえるので、私は、電気をつけようと嗄れた声で主張いたしました。そのとき、高橋の顔に、三歳くらいの童子の泣きべそに似た表情が一瞬ぱっと開くより早く消えうせた。『まるで気違いみたいだろう?』ともちまえの甘えるような鼻声で言って、寒いほど高貴の笑顔に化していった。