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たこのごときもの
蛸の如きもの
豊島 与志雄
「改造」1950(昭和25)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,085 字 · 21 页
見たところ、ただ、蛸が蛸壺からちょっと覗き出し、またこそこそと引っ込んだ、それだけのことに過ぎない。屋内の空気は水中のように静かだ。
硝子の破片を掃きよせてる少女を横目で見やりながら、マネージャーの森田は言う。
「器物を壊されるのが、いちばん困りますよ。」
至極もっともなことだ。
「然しわたしのうちでは、何を壊されようと、決して賠償して貰わないことにしています。」
当然じゃないか。当然すぎて、面白くもおかしくもない。
言うことは平凡だが、それでも、森田の眼はいい。くるくると動くどんぐり眼で、聊かの濁りも留めず、いつも四方八方を見てるような、方向定かならぬ視線だ。時に瞼をつぶって、その内部でなにか考え、またぱっと打ち開き、目玉がぐるぐると廻転する。見てる方で眩しい思いがする。
眼の中に入れても痛くない、という愛情の表現があるが、森田の眼は、多くのものをやさしく抱擁してるに違いない。ただ、も少し静かにしていてくれるといい。酒の満ちた杯のように。今丁度、卓上の杯には酒が満ちている。電灯が映って、円やかにぼーっと閃めき……。
あ。
俺は酒杯の中にいた。
空中を飛行しているのだ。