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はえ
蠅
宮本 百合子
「若草」1926(大正15)年10月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 3,279 字 · 7 页
雄々しさを褒める感歎が源一の心に湧いた。さあ、もう一歩、もう一歩、不幸な運命と勇ましく闘う王のような熊蠅が、無事にこの粘紙の地獄を抜けきったら、源一は、天晴(あっぱれ)な奴だ、逃してやろうと思った。今、薬紙は、戸棚の前に下っている。蠅取紙を横切れば、熊蠅は襖紙の上に出られる筈であった。この時の熊蠅の肢の踏張り方! 粘りまみれの全身を引ずって行く努力の真剣さ! 源一は気のよい青年であったから、打れたようになってその光景を観察した。もう一分――そら、もう一分の半分ほど。――蠅は、終に恐るべき蠅取紙の外へ一厘ばかり片肢を出した。その途端、源一は蠅の全身を貫き、焔のような歓喜が突走ったのを感じた。源一の心裡に異様な衝動が煽られた。彼は急がずせかず、新聞の間から落ちた広告のビラを拾い上げた。彼は、顎の辺が俄かに蒼白になったような表情で顔を歪めながら、世にも躊躇せぬ手軽さで熊蠅をその紙の中にまるめ込んでしまった。源一は肱掛窓の格子の隙から、ボールを投げるように境のトタン塀に向ってそれを投げつけた。
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
1979(昭和54)年6月20日初版発行