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こわく
蠱惑
豊島 与志雄
「新思潮」1914(大正3)年3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,765 字 · 28 页
私はそれでもまだ自分に力があることを信じている。私が今まっすぐに彼に向って歩き出したら、私をとり巻く彼の世界をずっと通りぬけることが出来るという確信がある。然し私は怖いんだ。身の毛が立つほど怖いんだ。
彼の世界にはその奥に薄い膜がある。私にはそれより先は見えないんだ。それは薄い膜だから一寸爪先で蹴ればすぐ破けるに相違ない。然し今その先のものが私を脅かしている。私はよく夢の中で高い所から底のない深みへ、息づまるような速力で一直線に落つる恐怖を感ずることがある。私がその薄い膜から先を覗こうとする時は、それと同じい恐怖が私を襲うのだ。
然しこのままで居ては只彼からこの生命を吸い取らるるばかりなんだ。私はどうにかしなければいけないんだ。
――寒い風がすさまじく吹いている。その音が私の頭に当ってかんかんという音を立てている。カフェーの中の円い卓子に倚っていても私の身体は風の音にふらふらと揺られそうだ。
その時入って来た彼を見て、私は思わず歯をくいしばってしまった。
彼は決して頸巻をしていたことがなかった。それにその晩は私と同じなラクダの布で、而も私と同じように顔の下半分を包んでいたのだ。