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こわく

蠱惑

豊島 与志雄

「新思潮」1914(大正3)年3月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,765 字 · 28 页

青空文庫

その時彼が私を嘲笑ったのだ。口元に皺をよせて白い歯を少しその唇の間から見せ乍ら、賤しい蔑視の眼を私の上に据えたのだ。私は非常な屈辱と忌々しさを感じた。然し私は力なく首垂れている自分を彼の前に贄として差出すの外はなかったのだ。

何という様だろう! 私はとうとう彼の惑わしの糸に搦められてしまったのだ。もうどうにも出来ないんだ。

彼のうちには深い穴があるのを私は初めから知っていた。彼がじっと眼を据えたものから何かが流れてその穴の中へ入って行くのを私は見た。私は今はっきりと知っている。それは物の魂なんだ。この仕方で彼は私の世界に在る凡てのものの魂を吸い取ったのだ。私の頬の感覚までも吸い取ったのだ。そして今私の魂をも吸い取って※(「祗」の「示」に代えて「舌」、第3水準1-90-58)ろうとしている。この貪って飽くことを知らない穴が、その底に無限の空間が続いているその闇の穴が、今じっと私を吸いつけようとしている。

私にはもう魂のない平面的な、現実の堅い皮ばかりしか残されていない。そして裸で震えている一人ぼっちな自分の魂しか残されていない。然し私の魂があの穴なしの闇の穴に吸い取られる前に、私は屹度彼に対して、最期の奮闘をしないではおかない。