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ついおくのとうや

追憶の冬夜

寺田 寅彦

「短歌研究 第三巻第十二号」1934(昭和9)年12月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 4,522 字 · 9 页

青空文庫

子供の時分の冬の夜の記憶の中に浮上がって来る数々の物象の中に「行燈」がある。自分の思い出し得られる限りその当時の夜の主なる照明具は石油ランプであった。時たま特別の来客を饗応でもするときに、西洋蝋燭がばね仕掛で管の中からせり上がって来る当時ではハイカラな燭台を使うこともあったが、しかし就寝時の有明けにはずっと後までも行燈を使っていた。しかも古風な四角な箱形のもので、下に抽出しがあって、その中に燈心が入っていたと思う。時には紙を貼り代えたであろうが、記憶に残っているのはいつも煤けており、それに針や線香でつついたいたずらの痕跡を印したものである。夜中にふと眼がさめると台所の土間の井戸端で虫の声が恐ろしく高く響いているが、傍には母も父も居ない。戸の外で椶櫚の葉がかさかさと鳴っている。そんなときにこの行燈が忠義な乳母のように自分の枕元を護っていてくれたものである。

母が頭から銀の簪をぬいて燈心を掻き立てている姿の幻のようなものを想い出すと同時にあの燈油の濃厚な匂いを聯想するのが常である。もし自分が今でもこの匂いの実感を持合わさなかったとしたら、江戸時代の文学美術その他のあらゆる江戸文化を正常に認識することは六かしいのではないかという気もする。