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かぎ
鍵
谷崎 潤一郎
「中央公論」中央公論社、1956(昭和31)年1月、5月~12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 102,182 字 · 200 页
もっとも、「敏子が十ぐらいの時に二三度喀血した経験があ」り、「肺結核の症状が二期に及んでいると云われ」たのは事実であるが、それでも「医師の忠告を無視して不養生の限りを尽し」て、幸運にも「案ずるほどのこともなく自然に治癒してしま」い、それ以後再発したことはなかったのであった。従って、「二月の或る日、この前の時と全く同じ泡を交えた鮮紅色の血液が痰とともに出た」ことも、「午後になると毎日のように疲労感が襲って来」て、「おりおり胸が気味悪く疼」いたことも、「今度は次第に悪化して救いがたいことにな」りそうで、どうやら「ただごとでない」ような気がしたことも、すべて根も葉もない虚構で、それは夫を一日も早く死の谷へ落し込む誘いの手として書いたのであった。私も死を賭しているのであるから、あなたもその気におなりなさいと、私は夫にそう云って聞かせるのが目的であった。あれから以後の私の日記は、もっぱらその目的に添って書かれているのであるが、書くだけでなく、場合によっては喀血の真似事をさえ演じて見せる用意をしていた。私は彼を息う暇なく興奮させ、その血壓を絶えず上衝させることに手段を悉した。