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かぜのたより

風の便り

太宰 治

1942(昭和17)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,044 字 · 66 页

青空文庫

一時、わすれていたのですが、こんど、あなたから、「エホバを畏るるは知識の本なり。」という箴言を教えていただいて愕然としたのでした。ずいぶん久しい間、聖書をわすれていたような気がして、たいへんうろたえて、旅行中も、ただ聖書ばかりを読んでいました。自分の醜態を意識してつらい時には、聖書の他には、どんな書物も読めなくなりますね。そうして聖書の小さい活字の一つ一つだけが、それこそ宝石のようにきらきら光って来るから不思議です。あの温泉宿で、ただ、うろうろして一枚の作品も書けず、ひどく無駄をしたような気持でしたが、でも、いまになって考えると聖書を毎日読んだという事だけでも、たいへん貴重な旅行であったのかも知れません。聖書を思い出させて下さったのも、また、私に旅行をすすめて下さったのも、すべてあなたであります。やはり私は、あなたに苦しさを訴えてよかったのかも知れません。私は、あなたに救われたのです。いよいよ私は、あなたに甘える事が出来ません。真の尊敬というものは、お互いの近親感を消滅させて、遠い距離を置いて淋しく眺め合う事なのでしょうか。私は今は、生れてはじめて孤独です。