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こうでん
香奠
豊島 与志雄
「時流」1925(大正14)年3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 22,989 字 · 46 页
すると彼女は突然私に云いました。
「あたし御香奠を差上げたいんですけれど、父がやかましいものですから……先生から取次いで頂けませんでしょうか。」
私はふいにつき飛ばされたような気がしました。それは余りに期待外れの言葉でした。で心を立て直すと、憤慨の調子で云ってやりました。
「香奠なんかの必要はありません。平田伍三郎が死んだということを、私はあなたにお伝えするだけです。」
彼女は大きな上目がちに私の顔を見上げました。その眼には愁いの影なんかはなくて、媚びを含んでるとさえ思われたのです。
「ええ、分りましたわ。有難うございました。」
そしてそれきりで私達は、一寸軽いお辞儀をして別れました。
私は暫くの間ぼんやり往来の真中に佇んでいました。気がついてみると、学生や労働者や勤人なんかが、実に沢山元気よく忙しそうに通っていました。爽かな朝日が街路に流れて、靄が薄すらと消えかかっています。その中で私は、彼女の印象を飛び飛びに思い浮べて、何だか急に未知の世界を覗いたような晴々しい気持になりました。
そうして、私が平田伍三郎の霊前へ差出した香奠の中には、私がひそかに彼女の分としておいた十円だけ、余計に包まれていたのです。