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なるとひちょう
鳴門秘帖
吉川 英治
03 木曾の巻
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 56,957 字 · 114 页
そこへ山番のしわぶきがきこえてきたので、世阿弥は、一八郎のいった意味を「なぜか?」と問い返してみる隙もなく、石子牢の前を離れて駈けだした。
森をぬけて断崖に出で、藤蔓にすがりながら瘤山の裾へ戻ってきた。そして、朽木丸太を架けておいた所へ出るまで、流れぎわの岩石と水草の間を這ってくると、何やら、妙なものがフト指先にふれた。
さわったと思うと、それが岩の間へ、スルリと辷って行ったので、あわてて拾い取ってみると、月明りでしかとは分らないが、どうやら古風な懐紙挟みで、金襴革の二つ折り、旅用とみえて懐紙以外なものが厚ぼったく挟んである。
「分った、これはあの竹屋三位が持ちものであろう」
世阿弥は、格別役にたつものとは思わなかったが、そのまま、ふところへ入れて、以前の所から激流を渡った。
そして、後に疑いを残さぬように、朽木を流れの中へ突き落すと、パッと白い水煙をあげて、その丸木が大蛇のように浮かんでゆく。
で、無論、世阿弥が柵を出て、石子牢にいる一八郎と話をまじえたなどということは、山詰の役人、誰一人として気がつかなかったが、永らく蟄伏していた世阿弥の心は、その日から、俄然と眼をさまして一縷の望みを江戸の空へつないだ。