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きりん
麒麟
谷崎 潤一郎
「新思潮 第四号」1910(明治43)年12月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,040 字 · 18 页
「妾は世の中の不思議と云う者に遇って見たい。あの悲しい顔をした男が真の聖人なら、妾にいろ/\の不思議を見せてくれるであろう。」
こう云って、夫人は夢みる如き瞳を上げて、遥に隔たり行く車の跡を眺めた。
孔子の一行が北宮の前にさしかゝったとき、賢い相を持った一人の官人が、多勢の供を従え、屈産の駟馬に鞭撻ち、車の右の席を空けて、恭しく一行を迎えた。
「私は霊公の命をうけて、先生をお迎えに出た仲叔圉と申す者でございます。先生が此の度伝道の途に上られた事は、四方の国々までも聞えて居ります。長い旅路に先生の翡翠の蓋は風に綻び、車の軛からは濁った音が響きます。願わくは此の新しき車に召し替えられ、宮殿に駕を枉げて、民を安んじ、国を治める先王の道を我等の公に授け給え。先生の疲労を癒やす為めには、西圃の南に水晶のような温泉が沸々と沸騰って居ります。先生の咽喉を湿おす為めには、御苑の園生に、芳ばしい柚、橙、橘が、甘い汁を含んで実って居ります。先生の舌を慰める為めには、苑囿の檻の中に、肥え太った豕、熊、豹、牛、羊が蓐のような腹を抱えて眠って居ります。願わくは、二月も、三月も、一年も、十年も、此の国に車を駐めて、愚な私達の曇りたる心を啓き、盲いたる眼を開き給え。