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ねずみざか

鼠坂

森 鴎外

「中央公論」1912(明治45)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 7,781 字 · 16 页

青空文庫

近所の人は驚いている。材木が運び始められる頃から、誰が建築をするのだろうと云って、ひどく気にして問い合せると、深淵さんだと云う。深淵と云う人は大きい官員にはない。実業家にもまだ聞かない。どんな身の上の人だろうと疑っている。そのうち誰やらがどこからか聞き出して来て、あれは戦争の時満洲で金を儲けた人だそうだと云う。それで物珍らしがる人達が安心した。

建築の出来上がった時、高塀と同じ黒塗にした門を見ると、なるほど深淵と云う、俗な隷書で書いた陶器の札が、電話番号の札と並べて掛けてある。いかにも立派な邸ではあるが、なんとなく様式離れのした、趣味の無い、そして陰気な構造のように感ぜられる。番町の阿久沢とか云う家に似ている。一歩を進めて言えば、古風な人には、西遊記の怪物の住みそうな家とも見え、現代的な人には、マアテルリンクの戯曲にありそうな家とも思われるだろう。

二月十七日の晩であった。奥の八畳の座敷に、二人の客があって、酒酣になっている。座敷は極めて殺風景に出来ていて、床の間にはいかがわしい文晁の大幅が掛けてある。肥満した、赤ら顔の、八字髭の濃い主人を始として、客の傍にも一々毒々しい緑色の切れを張った脇息が置いてある。