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うすゆきしょう

うすゆき抄

久生 十蘭

「オール讀物」1952(昭和27)年1月号~3月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 30,454 字 · 59 页

青空文庫

この上には猪のいる山隈があるばかり。せっかくこの道を来られたには、屋形に御用の方とぞんずるが、お名を仰せあればお取次ぎいたす、などと弁口めかした詮議だてをしている。その人は意外な咎めを受けるものかなといった面持で、黙然と道なかに立ちつくしていたが、やがて慇懃に膝へ手をおろして、

「私はこの上の猪の出る山隈に、ささやかな領地を持っている青山大炊介という郷士ですが、四、五年、下野の足利に居り、この谷津にかような邸第の出来たことも、今日はじめて知った次第。隣保の仁義にも及ばなかったが、以後、よろしくお見知りおきねがいたい」

軽やかに受流して、悠然と上のほうへあがって行ってしまった。

あとを慕ってくると思っていたが、それは見当ちがいで、上の谷戸へ帰るひとだった。行子はむやみに興奮していたので、当外れの失望から神経の発作をおこし、三層閣の部屋へ入るなりひどい熱をだしてしまった。

熱といってもいろいろだが、それは摩擦抵抗から生じる熱作用、といったたぐいのものだったのだろう。その夜、行子は頭の下でたえず熱い枕を廻しながら、朝までまんじりともしないという辛い夜を、生れてはじめて経験した。