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すみだがわ

すみだ川・新橋夜話 他一篇

永井 荷風

永井荷風『すみだ川・新橋夜話 他一篇』。同一底本的分册已合并为一书。收入:すみだ川、深川の唄。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,378 字 · 88 页

青空文庫

「まア、どうぞ御免なすって……。」と銀杏返は顔を真赤に腰をかがめて会釈しようとすると、電車の動揺でまたよろけ掛ける。

「ああ、こわい。」

「おかけなさい。姉さん。」

薄髯の二重廻が殊勝らしく席を譲った。

「どうもありがとう……。」

しかし腰をかけたのは母らしい半白の婆であった。若い女は丈伸をするほど手を延ばして吊革を握締める。その袖口からどうかすると脇の下まで見え透きそうになるのを、頻と気にして絶えず片手でメレンスの襦袢の袖口を押えている。車はゆるやかな坂道をば静かに心地よく馳せ下りて行く。突然足を踏まれた先刻の職人が鼾声をかき出す。誰れかが『報知新聞』の雑報を音読し初めた。

三宅坂の停留場は何の混雑もなく過ぎて、車は瘤だらけに枯れた柳の並木の下をば土手に沿うて走る。往来の右側、いつでも夏らしく繁った老樹の下に、三、四台の荷車が休んでいる。二頭立の箱馬車が電車を追抜けて行った。左側は車の窓から濠の景色が絵のように見える。石垣と松の繁りを頂いた高い土手が、出たり這入ったりして、その傾斜のやがて静かに水に接する処、日の光に照らされた岸の曲線は見渡すかぎり、驚くほど鮮かに強く引立って見えた。