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やもりものがたり

やもり物語

寺田 寅彦

「ホトトギス 第十一巻第一号」1907(明治40)年10月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 4,340 字 · 9 页

青空文庫

翌る年の春、上野の花が散ってしまった頃、ある夜膳を下げに来た宿の主婦の問わず語りに、阪の下の荒物屋の娘が亡くなったと云う話をした。今日葬式が済んだと云う。気立ての優しいよい娘であったが、可哀相にお袋が邪慳で、せっかく夫婦仲のよかった養子を離縁した。一体に病身であった娘は、その後だんだんに弱くなって、とうとう二十歳でこんな事になったと話して聞かせた。自分は少し前に上野でこの娘に会うたことを思い出した。その時は隣の菓子屋の主婦と子供を二、三人連れて、花吹雪の竹の台を歩いていた。横顔は著しく痩せてはいたが、やがて死ぬ人とも見えなかったのである。

自分が年中で一番厭な時候が再び来て暗闇阪にはまたやもりを見るようになった。ある夜荒物屋の裏を通ったら、雨戸を明け放して明るい座敷が見える。高く釣った蚊屋の中にしょんぼり坐っているのは年とった主婦で、乱れた髪に鉢巻をして重い病苦に悩むらしい。亭主はその傍に坐って背でも撫でているけはいである。蚊屋の裾には黒猫が顔を洗っている。

やもりと荒物屋には何の縁もないが、何物かを呪うようなこの阪のやもりを行き通りに見、打ち続く荒物屋の不幸を見聞きするにつけて、恐ろしい空想が悪夢のように心を襲う。