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パンドラのはこ

パンドラの匣

太宰 治

太宰治『パンドラの匣』。同一底本的分册已合并为一书。收入:パンドラの匣、正義と微笑。

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 192,644 字 · 386 页

青空文庫

肉親って、いいものだなあ、とつくづく思った。木島さんは、市川菊松! 市川菊松! と二度も大声で叫んだそうだ。提灯持ちに声を掛けたって仕様がない。恥ずかしいことをしてくれたのもである。

「僕の掛声は聞えましたか?」と自慢そうに言う。聞えるどころか、提灯持ちは舞台で気が遠くなって、いまにも卒倒しそうだったのだ。

兄さんは僕の耳元に口を寄せて、

「楽屋に、すしか何かとどけさせようか?」と通人振った事を、まじめな顔して囁いたので、僕は噴き出しちゃった。

「いいんだよ。春秋座では、そんな事は、しないんだ」と言ったら、

「そうか。」と不満そうな顔をしていた。

二つ目の「坊ちゃん」の時には、割に気楽だった。観客席の笑い声を、かすかに聞きとる事が出来た。けれども、やっぱり、観客の顔は、なんにも見えなかった。馴れて来ると、観客の笑い声だけでなく、囁き声やら、赤ん坊の泣き声まで、はっきり聞えて来て、かえってうるさいそうである。観客の顔も、どこに誰が来ているという事まで、すぐにわかるようになるそうだ。僕は、まだ、だめだ。夢中だ。いや、生死の境だ。

役を全部すまして、楽屋風呂へはいって、あすから毎日、と思ったら発狂しそうな、たまらぬ嫌悪を覚えた。