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ヘヤーピンいっぽん
ヘヤーピン一本
豊島 与志雄
「人間喜劇」1948(昭和23)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,246 字 · 17 页
鍵の手になってる建物の、あちらの一廓が賑かだ。あとで聞いたことだが、戦災にあった親戚の大人数の一家が住んでいる。こちらの方はひっそりしている。可なり広い庭に、適度な植込みがあり、頬白が茂みの中に動いている。その庭の、縁側伝いの彼方に、セメント造りの大きな池があり、どういう仕掛けか水がちょろちょろ注いでいて、みごとな真鯉がいくつも泳いでいた。
その池のところへ行って、俺は鯉を眺めた。そしてそこで、紅茶をのみ、果物をたべ、新聞をよみ、また鯉を眺めた。午後になってすぐ岩木が帰ってくると、彼といっしょに鯉を三尾ほど捕えて、それを酒の肴に料理した。
岩木は十年前と殆んど変っていなかった。俺の方も変っていないと彼はいう。そして二人で顔見合せて笑い、楽しく語り合った。だがそれらのことは、この物語と関りないから、省略しよう。
俺の旅程では、どうしても、その晩の汽車で立たなければならない。スーツケースも駅に一時預けしてきたほどだ。だから二人は、急いで飲み、急いで食い、急いでいろいろなことを話した。その話に、久子さんは殆んど加わらなかった。別な存在のようで、或は人形のようで、ただ席に侍ってるだけだ。