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せんきゅうひゃくさんじゅうにねんのはる

一九三二年の春

宮本 百合子

「改造」(はじめの約15枚分)1932(昭和7)年8月号、「プロレタリア文学」(残りを追加して再掲)1933(昭和8)年1~2月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 21,942 字 · 44 页

青空文庫

わたしのところからは見えないが、看守は保護室の真前のところをぶらついているらしく、

「……だから行けよ、戸をあけて」

と太い低い声でいっている。四畳半の保護室はやはり板敷であるが、戸は木の縦棧が徳川時代の牢のようにはまっているだけで、やせた腕なら棧の間から手先をさし込み、太い差し錠の金具をひっぱり出すことが出来るのである。今もそれをやってみる金具の音がした。

「――駄目だ!」

錠が下してあるのだ。看守はそれを知っていっている。留置場じゅうがそれを聞いている。雨つづきと、板敷へじかに何日も坐りつづけているのと、粗食とで体は冷えこみ、少し寒い日は誰でも小便がひどく近くなる。それを一々看守にたのみ、監房をあけて貰って、小便に行かなければならないのだ。

十分ばかり沈黙の後、今度は別な声で、

「旦那。一つ便所ねがいます」

とやや威勢よくいった。

「…………」

それは黙殺された。

「――ねえ、旦那」

再び元の中年寄の声だ。

「あけてやって下さいよ。洩れちゃいますよ」

「いいからそこへやっちまえよ」

「穢くってそんなことが出来るもんかね。ねえ旦那、お願いします、わたしゃ病気なんですよ」