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さぶろうじい
三郎爺
宮本 百合子
「東京日日新聞」1918(大正7)1月5日~17日号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 24,866 字 · 50 页
ところで、今度は半(なかば)命令し半懇願するような山沢さんの声が、
「もう行かれないか? 駄目か?」
と叫ぶのを聞いた。
その瞬間、彼の心には例の絶対的服従の愛情が湧き上って来た。何だか、大変な覚悟が出来たような気持がした。そしてちらと山沢さんの方へ瞥見を投げながら、尺度を突きなおしたとき、彼の胸にはまた「おっちみるような心持」がスーッと拡がった。
その中に女房のおまさの笑顔と、娘の寝顔とが浮んで消えた。彼は、後からはとうてい思い出すことも出来ない一種の感情に打勝たれて、ただ明かに、「死んでも命は惜くねえ」とばかり思いながら、一歩進んだ。そして、もう片足を出そうとしたとき、急に腰のなわが、ぎゅうっと引っぱられたので、何となく急に心持がはっきりした彼は、始めて今自分の立っている位置に心づいた。そうすると、急に恐くなって――今度は確かに恐怖を感じて――さっさと岸へ戻って来てしまった。
青ざめて体中から滴(しずく)をたらしながら、汀に立った三郎の顔へ、近々と自分の顔を近よせながら、
「よくしてくれたな、有難かったぞ」
と山沢さんが云った。
すると、彼は急に、真赤な顔になりながら、大恐悦な声を出して、皆が気味悪がったほど笑ったのだそうだ。