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にんげんはんえい

人間繁栄

豊島 与志雄

「改造」1924(大正13)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,038 字 · 38 页

青空文庫

その頃、大学四年の間、津田洋造は一人の恋人を守り続けて、品行方正な学生として通した。然るに、卒業してすぐに結婚しようという希望が、眼の前に迫ってきた間際になって、その恋人……道子から裏切られてしまった。それも、道子の家庭の事情や道子の境遇などからして、止むを得ない成行ではあったろうけれど、彼は一図に失恋の悲痛に馳られて、自殺の決心をした。

彼の家に、無銘ではあるが、長義の作だと伝えられる、白鞘の短刀があった。彼はそれを持出して、甞て道子と二人で甘い一日を過したことのある、江ノ島へ出かけた。勿論その時、どういう方法で何処で死ぬかを、はっきりきめていたわけではなく、ただ漠然と、万一の用意に短刀を携えて、失った恋の追跡を最後に訪れたのだった。そして、道子と共に昼食した旅館へ、ぼんやりはいり込んだ。

わりに暖い初冬の日だったが、客は極めて少なかった。かすかに聞ゆる波の音と共に、夜はしみじみと更けていった。彼は八畳の座敷に一人ぽつねんとしていたが、ふと物に慴えたようにぎくりとしながら、短刀の鞘を払って、一点の曇りもない皎々たる刀の、刀先から鍔元までを、じっと電燈の光にかざして見た。