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はちじゅうはちや

八十八夜

太宰 治

「新潮」1939(昭和14)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,623 字 · 28 页

青空文庫

私は、魯鈍だ。私は、愚昧だ。私は、めくらだ。笑え、笑え。私は、私は、没落だ。なにも、わからない。渾沌のかたまりだ。ぬるま湯だ。負けた、負けた。誰にも劣る。苦悩さえ、苦悩さえ、私のは、わけがわからない。つきつめて、何が苦しと言うならず。冗談よせ! 自動車は、やはり、湖の岸をするする走って、やがて上諏訪のまちの灯が、ぱらぱらと散点して見えて来た。雨も晴れた様子である。

滝の屋は、上諏訪に於いて、最も古く、しかも一ばん上等の宿屋である。自動車から降りて、玄関に立つと、

「いらっしゃい。」いつも、きちっと痛いほど襟元を固く合せている四十歳前後の、その女将は、青白い顔をして出て来て、冷く挨拶した。「お泊りで、ございますか。」

女将は、笠井さんを見覚えていない様子であった。

「お願いします。」笠井さんは、気弱くあいそ笑いして、軽くお辞儀をした。

「二十八番へ。」女将は、にこりともせず、そう小声で、女中に命じた。

「はい。」小さい、十五、六の女中が立ち上った。

そのとき、あのひとが、ひょっこり出て来た。

「いいえ。別館、三番さん。」そう乱暴な口調で言って、さっさと自分で、笠井さんの先に立って歩いた。