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はちじゅうはちや

八十八夜

太宰 治

「新潮」1939(昭和14)年8月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,623 字 · 28 页

青空文庫

「ほんとうに、すぐお帰りになるの?」

「かえる。」笠井さんは、どてらを脱いで身仕度をはじめた。下手におていさいをつくろって、やせ我慢して愚図々々がんばって居るよりは、どうせ失態を見られたのだ、一刻も早く脱走するのが、かえって聡明でもあり、素直だとも思われた。

かなわない気持であった。もう、これで自分も、申しぶんの無い醜態の男になった。一点の清潔も無い。どろどろ油ぎって、濁って、ぶざまで、ああ、もう私は、永遠にウェルテルではない! 地団駄を踏む思いである。行為に対しての自責では無かった。運がわるい。ぶざまだ。もう、だめだ。いまのあの一瞬で、私は完全に、ロマンチックから追放だ。実に、おそろしい一瞬である。見られた。ひともあろうに、ゆきさんに見られた。笠井さんは、醜怪な、奇妙な表情を浮べて、内心、動乱の火の玉を懐いたまま、ものもわからず勘定をすまし、お茶代を五円置いて、下駄をはくのも、もどかしげに、

「やあ、さようなら。こんどゆっくり、また来ます。」くやしく、泣きたかった。

宿の玄関には、青白い顔の女将をはじめ、また、ゆきさんも、それから先刻の女中さんも、並んでていねいにお辞儀をして、一様に、おだやかな、やさしい微笑を浮べて笠井さんを見送っていた。