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ちじょう
地上
島田 清次郎
地に潜むもの
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 175,250 字 · 350 页
彼は冬子を忘れたように部屋にはいって、次の寝室に行きかけた。
「あのお寝巻を」
「うん」彼は女中に着替えさせて、蚊帳の中へ這入った。
「冬子」
「はい」
「眠くなったら、ここの床へはいってねるがいいよ」
「はい、ありがとうございます」
冬子は、自分の生涯に、今のような強くて温かで真情に溢れた言葉を聞いたことがなかったと思った。彼女はお光を想い起こした。お光の傍にいると自分が芸妓であることは自然に忘れてしまう。彼の前では自分は芸妓でありたくないと一心に思う。お光の傍にいては穏やかな平和に解け合う代りに、彼の前では自分などには量り知られぬ偉大な力に圧倒され、しかもその力に引きずられそうになる――(眠くなったらここの床へはいって寝るがいいよ。)蚊帳のうちは全く静寂になってしまった。冬子は蚊帳の中を見守った。呼吸さえ聞えなかった。彼女は妙に自分が不調法で、すまないように思われて来た。客に招ばれた芸妓が客を先に寝かしたまま放って置くということがあり得ようか。しかしそうなってしまった。彼女は立って自分の部屋にあててあるという壁一重隔てた次の間に去った。強烈な光の下に、鏡台やかけがえの着物や三味箱などが取り散らかされてあった。