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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

「あそこの長男は豪い。あんなの一人もいない。」と村のものらはいう。

応召の際、父に頼んで、毎夜その日の支出費だけ必ずつけてくれと、云い残しただけだとの事である。酒で家を潰した父に対する釘としては、もっとも確実な打ち方だ。

青柿が枝のまま風に騒いでいる。夕映えの流れた平野の上を走る雲足に木立が冷たい。濡れた青草を積み、農具の光ったリヤカーを引いて戻って来た久左衛門の長男の嫁は、川の流の傍で私に丁寧なお辞儀をした。健康に赤らんだ円い顔で、黙って立って礼をする夕暮どきの透明さ。私も思わずミレーになったような清浄な気持ちを覚え、彼女の幸福ならんことを願って礼をした。やはり晩鐘の美しさは誰にも一日に一度は来ているのだ。

久左衛門の家へ入ると、彼は風呂から出たばかりで、ふんわりと丹前をかけ炉の前に坐っている。支那の学者のような穏かな顔になったり、厳しいリアリストの眼になったりする彼の表情を見ながら、この久左衛門は、六十八で、今一生のうち一番幸福の絶頂にいるのではないかと私は思った。不足なものは何一つない。子供たちの誰もが出征せず、持ち物の値は騰るのみだ。極貧からとにかく現金の所有にかけては村一番になっている。