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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

蚤と蝿とに苦しめられている時の私には、思わぬひっそりとした朝の一刻の独居だ。誰か歯形を白くつけたままの柿の実が樹に成っている。山腹の木の葉が紅葉しかけている。私は炉に火を焚きつけて湯をかけた。

そこへ、白痴の天作がひとり早く白土工場から帰って来た。天作と二人きりになるのは私には初めてだ。炉端に坐らせ、私は彼に茶を出した。

「どうです。」

「うむ。」と天作は云ったままごくりと一口に飲んだ。胸からはだけ出た逞しい筋肉だ。

「どうです。」とまたもう一杯。

それも忽ちひと舐めだ。どこか薄笑いの漂ったいつもの顔で、多少は照れるのか横を向き、あぐらをかいている。人から茶など出されたことは二十三歳初めてと見えて、さらに一杯注ぐと、「もうええ。」と云った。

「工場は休み。」

「うむ、硫酸がない云うてたの。」

これでは、人の云うほど天作は白痴ではなさそうだが、一日に二升を食べる彼を思うと、「人ではないの。」とつい私も云いたくなった。一日四杯と、二升とこっそり対き合っているこの朝の景色は、至極のどかだ。格子から見える山の上に一本高く楢の木が見えていて、そこへ群落して来た鶸が澄んだ空に点点と留っている。