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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

これはここの湯舟だけであろうか。ネロに攻められ、侍女と二人で湯に浸りつつペトロニユスの死んでゆくときのあのローマも、このような湯の中の美しさはなかったであろうと感慨も豊かになり、私はなお女の足を見ながら、時間は相当前からつづいていたのだからもっと早くから眺めていれば良かったと残念に思っていた。

「あなた、お分りになって。」

そのとき突然、隣室からそう呼んだ。声はたしかに妻のようだった。どうもおかしい。私はしばらく黙っていてから「お前かい。」と訊ねてみた。

「ええ。そう。」と妻は壁の向うで答えた。

「何んだ、いつ来た。」

「さっき、一時のバスで。お待ちしてましたのよ。」

「ふむ、もう少し脚を見せなさい。」

「いや。」と云って、妻はすぐ脚をひっ込めた。

「お前の脚は、夜の鹿のようにすらりとしている。」と、とうとうネロにこんな形容詞を私は云わせて了う始末になったが、このとき湯の底で覗いた透明な脚の白さは、二十年なお私の眼底に残っている鹿の斑のような哀感ある花である。恐らく私の前の青年も第一候補と整えばこうしてここへ再び来ることだろうが、もう今はどの浴槽もローマの湯のように文明になっている。