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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

一度退散した久左衛門の気苦労は再び増して来始めた風である。

「ないのも困るが、有るのも困ったものじゃ。」と彼はとうとうそんな音をあげた。

由良の老婆の利枝はまだ久左衛門の所から帰らないが、今日も参右衛門の炉端へ駈けこんで来て、

「とうとう婆アと喧嘩してやった。姉妹だというのに、もう米も貸してくれやせんわ。剛っ腹だぜ、そら、持って来てやった、食べよ食べよ。」

と云いながら、前垂の下から野菜や芋の煮つけを出す。清江は笑っているだけだ。由良の漁場では東京の網元が焼失してしまっており、網の修繕が出来ず、油も高くて来ないところへ、復員の子が一人増し、米は何としても久左衛門の家から都合をつけずにはいられない。せつ子の結婚式用の魚を揃える約束で今から米を催促している老婆の苦労は、こうして朝毎の姉妹喧嘩となって、台所をばたばたと活気づけるのだが、この利枝は来るたびにまた板の間を、拭く癖がある。

「ここはおれの生れた家だでのう。こうしてふき掃除して美しゅうして置かんと、来た気がせんわ。」

別に私たちへの当てつけではない。私の部屋の縁先まで拭きつづけてくれては、一寸休むと庭の竹林を眺めている。