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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

「日が射して来てから家を出るのは、もう仕事じゃないのう。」と、久左衛門が云った。

「おれは人の二人前は、いつのときでも働いた。前には村で一番の貧乏だったが、今では先から五番になった。」

「この村の人は、女の方がずっとよく働きますね。」

「ははははは、そういえば、そうかのう。」と、この老人は笑ってから、一寸このとき考え込んだ。

六十八歳の老人が、今まで一度も、そんなことを考えてみたこともなかったということ。――やはり、人は自分のことを一番に考えて、それから答えるのだ。しかし、私もまた迂闊なことを訊ねたものだ。村で働きがないと云われることは、都会のものが感じるよりも、幾そう倍の侮辱になる、という衝撃については、甚だ残念ながら手落ちはこちらだ。ははははと笑った老人の初めの笑声は、ただの笑いではあるまい。おそらく六十八年の歳月の笑いであろう。

私はこの久左衛門という特殊な老農に注意を向けた。何ぜかというと、この平野は陸羽百三十二号という米を作る本場であること。この米は一般から日本で最上とされているのに、この平野の中でも、特にこの村の米は平野のものから美味だといわれていること、ところが、久左衛門の家の米は、この村の中でも一番美味であるということなどを考えると、――彼は日本一の米作りの名人ということになりそうだ。