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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

まだ誰も、そんなことを云ったのではない。しかし、押しせばめて来てみると、他に適当な論法のない限りは、そう思ってみる方が、私だけには興味がある。たしかに、同じ注意を向けてみるなら、ひそかに私はそう思うことにしてみたい。

「おれは小さいときから算術が好きでのう。」

と久左衛門は云った。「今の若いもののやることを見ていても、おれよりは下手だのう。おれは算術より他に、頼りになるものは、ないように思うて来たが、やっぱりあれより無いものだ。」

またこの老人はこうも云った。

「みんな人が働くのは、子供のためだの。おれもそうだった。」

禿げた頭の鉢は大きく開き、耳の後ろから眼尻にかけて貫通した流弾の疵痕が残っている。二十二のとき日露の役に出征し、旅順でうけた負傷の疵だが、このときの恩給が唯一の資本となり、峠を越した漁村の利枝の家へ、縄と筵を売りに通った極貧の暮しも、以来鰻のぼりに上騰した。彼の妻のお弓は利枝の妹で、本家の参右衛門の母の妹にもなる。久左衛門は隣村から養子に来たとはいえ、前から本家とは親戚で遠慮の不要な間柄だ。

「この村は二十八軒あるが、参右衛門の家は一番の大元だ。