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よるのくつ
夜の靴
横光 利一
――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页
長老のこの弥兵衛の家の中は混乱している。妻女は後妻だが、私のところへこの婦人は魚を売りに来ることがある。前には由良の利枝と同村で料亭の酌婦をしていたのを、長老の漁色の網にひき上げられて坐ってみたものの、一家の経済の実権は六十過ぎの先妻の息子にあるから、こうして由良から魚を取りよせひそかに売り貯えているらしい。一見しても、格式ある立派な老杉が周囲をめぐっていて、神宮のような建物の長老らしい家である。そこから隠れて魚を売りに出て来る後妻の、でっぷりと肥えた皮膚の下に、むかしの生活の澱んだ憂鬱な下半白の眼は、幸福ではなさそうだ。長老はまた後妻の代りのも一人立てている風評も、杉木立の隙から私らの耳にもれて来ている。参右衛門の末の娘はこの家に奉公しているが、前には、弥兵衛と同格の名門であった彼のこの没落には、人の同情を誘ういたましいものはない。むしろ、人を失笑せしめる明朗なものがあって、そこが参右衛門の味ある人柄というべきところだろう。
「何んという阿呆かのう参右衛門は。遊んでばかりいて、飲んだくれて、家をこんなに潰してしもて。」
叔母にあたる久左衛門の妻女のお弓がこういうのも、言葉の裏の対象には、いつも弥兵衛の家が隠れている。