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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

」

呂律の怪しい歌を一寸やめては、参右衛門は清江の枕を揺り動かすようだ。それが二三度つづいたときだった。

「おおばこ来たかやと……

たんぼのはんずれまで、出てみたば……」

清江の歌が聞えて来た。彼女の眼のような、ふかい穏かに澄んだ声である。それも、もう羞しそうではなかった。参右衛門は、よもや清江が歌うまいと思っていたらしく、この予期に反した妻の歌には虚を衝かれた形で、暫くは彼も音無しくしていた。が、「うまい、うまい、うまい。」と、急に途中で云って彼は手を叩いた。しかし、もう清江は、そんなことなどどうでも良いという風に、

「おばこ来もせず、用のない、

たんばこ売りなど、ふれて来る。」

おそらく清江の歌など聞いたのは参右衛門も、初めてなのではあるまいかと、私は思った。およそ歌など謡いそうに思えぬ清江である。清江が謡いやめると参右衛門は自分も一寸後から真似て謡ってみたが、これはダミ声でとても聞けたものではなかった。彼はまたすぐ清江にやれやれと迫った。すると、また清江は謡った。

夜半のしんとした冷気にふさわしい、透明な、品のある歌声だった。調子にも狂いが少しもなかった。