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よるのくつ

夜の靴

横光 利一

――木人夜穿靴去、石女暁冠帽帰(指月禅師)

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 107,056 字 · 213 页

青空文庫

妻は顔を上げた。

「うむ。しかし、小林の方が芭蕉さんより一寸ばかし進歩しているね。おれの見たところではだ。」

「…………」

「それはそうと、小林はいつかお前を賞めてたことがあるよ。君の細君はいいね、ぼッとしていて、阿呆みたいでって。」

「まア、失礼ね。」妻は赧い顔をした。

「しかし、阿呆なところを賞められるようじゃなくちゃ、女は駄目なもんだよ。賢いところなら誰だって賞める。そんなのは、賞める方も賞められる方もまだまだ駄目だ。おれにしたってだ。」

妻は笑いが止まらなくなった様子でくすくす俯向いて笑っている。しかし、私の方はそれどころではない。非常な難問が増して来た。もう妻なんかに介意ってはおれぬ。今しばらくは斬り捨てだ。

一万米の高空でする戦闘と、地上百米の低空でする戦闘の相違について――これは飛行機のことではない。各人、だれでも一日に一度は必ずしなければならぬ平和裡の戦闘だ。妻と、友人と、親戚と、知人と、未知の人間と、その他、一瞥の瞬間に擦れちがって去りゆくものと。また自分と。戦法は先ず度を合して照準を定めることだが、照準器はめちゃくちゃだ。度が合ったときのその嬉しさ、そこからのみ愛情は通じるのだ。