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だいぼさつとうげ

大菩薩峠

中里 介山

37 恐山の巻

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 254,021 字 · 495 页

青空文庫

そうでなければ、犬はきっとその影だけを見て吠えるに相違ない。善良なる犬に於てもそうです、まして餓えたる犬に於てをや。

犬が吠えないのは、人の存在を認めないからです。人の存在を認めないのは、人の呼吸を気取らないからです。松の前に立っている黒衣覆面の人は、見ようによっては松の幹の中に吸い込まれてしまっている人のように、取りようによっては、松遁の術をでも使い出して、しばし太夫の位の下に隠形の印を結んだかと思われる。

ですから、犬も、この第二の悪魔をば問題にしないで、三々五々、鼻を鳴らしてのそりのそりとやって来るが、その鼻先が、どうしても松の根方から離れない。

やがて、先頭をきった餓えたる犬が、例の棄子の幼な児の籠のほとりまで来ると、にわかに鼻息が豚のように荒くなると共に、その荒い鼻息が、泣き倦み、笑い倦んで、ようやくすやすやと夢に入りかけたところの幼な児に向って吹きかけました。そうすると、続くところの三々五々の野良犬が、一度に鼻を鳴らして幼な児の籠を取囲みました。

六十二

それからあとは惨澹たるものであります。おしゃぶりも、ピーピーも、風車も、でんでん太鼓もケシ飛んで、ミルクであり、摺粉であるべき徳利はくわえ出されて、その余瀝が餓えたる犬の貪り吸うところとなりました。