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だいぼさつとうげ

大菩薩峠

中里 介山

41 椰子林の巻

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 178,374 字 · 345 页

青空文庫

「殿様、御気分でもお悪いのでございますか」

さし止められている殿様という言葉が、この時、思わず口を突いて出てしまったことは、その心が、昔の思い出に占められていたからです。秘書としてのお松ではなく、処女としてのお松でありました。

「いや、別に気分が悪いことはないが、少し考えさせられることがあってね」

「まあ、お考えあそばすことは、あなた様の始終のお仕事ではございませんか、いまさら考えごとをあそばすと、おっしゃるのがおかしいわ」

と、お松はつい語尾を砕けて言いきって、自分でなんとなく胸を躍らせる心持を加えたのが、自分でわかりません。

「いや、研究の考えごとと、人情の考えごととは、同じ考えごとでも性質が違うからな」

「考えごとにそんなに幾つもあるものでございますか、人情とは何でございます」

「人情というのは、人間の情合いのことなのだ。学問というのは、情合いをはなれた理性というものです。学問の考えは、深ければ深いほど落着くが、人情の考えというものは、深ければ深いほど乱れてくるものだ」

「では、殿様には、何かお心を乱すような人情の思い出が、お有りあそばしますか」

「有るとも、大有りだ」