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だいぼさつとうげ

大菩薩峠

中里 介山

34 白雲の巻

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 104,838 字 · 204 页

青空文庫

そこで白雲も、身に引比べて何かしらこの六枚屏風の余白に一つ書いてやりたい気になって、御苦労千万にも、一旦ついた枕をあげて、帯を締め直し、行燈をかき立て、筆墨の行李を開きにかかりました。

白雲は屏風の余白へ何か書いてみたい気になりましたが、さて、お手前ものの絵を描く気になれませんでした。

何か字を書きたい、といったところで、その文字も咄嗟に平仄を合わせて詩を作るの余裕もなく、また、あまり自信もない和歌や俳句の速成をのたくらせて、この道の泰斗名家のあとを汚すほどの向う見ずもやりたくなく、思案のはてが、いきなり、

ゆく春や鳥啼き魚の目はなみだ

と、ぶっつけ書きに、墨壺の水のゆるすだけを大きくなぐりつけて、そうしてその下に、魚と、鳥と、水と、木の枝とを描いて、ああこれでよしと心が落着き、ひとり感心しながら再び枕につきました。

何の理由で、田山白雲が特にこの句を認める気になったのだか、それはわかりません。ただこの場合、むやみにここへこの句を書いてみたくなったから、その衝動にかられて書いてみただけのものでありましょう。しかしながら、即興といっても、衝動といっても、人間は日頃心にないことを、自発的に発表するはずはありませんから、田山白雲は、日頃この一句が何がなしに好きで、記憶に溢れていた結果と見なければなりません。