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このみのうつりかわり
好みの移り変り
山本 周五郎
「あまカラ」甘辛社、1964(昭和39)年3月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 2,592 字 · 6 页
「ちょっと」と私は支配人を呼んだ、「これにはもう少しトマトの味をきかせたほうがいいんじゃないかな」
「とんでもない」人の好い支配人は慌てて手を振った、「うちのコックはやかましい男ですから、どうかソースのことなどに文句をつけないで下さい」
私は黙って帰った。まだ若いころだったから「フランス料理」という看板を外して持っていっちまおうかと思ったくらいであった。よほどの名人でない限り、煮込み料理に使うソースは客の好みをきくべきである、と信じていたからだ。それから幾日かのち友人と「ふじ屋」へいったら、例の支配人がやって来て云った。
「先日は失礼しました」この好人物はにこやかに微笑した、「あのソースのことを話しましたところ、コックがためしてみまして、野鴨の煮込みのソースにはトマトの味をきかせるほうがいいようだと云っておりました、はい」
私はそのとき「穴があったらはいりたい」という言葉が嘘でないことを知った。尤もその店ではのちにも失敗したことがある。作曲家の石田一郎といっしょだったと思うのだが、魚のフライにステーキかなにか喰べたあと、急にスープが欲しくなって注文した。