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おばすて
姨捨
堀 辰雄
「文藝春秋」1940(昭和15)年7月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,351 字 · 20 页
六
女房の一人でも月を眺めているのだろう位に思って、男は何の気なしにそれへ詞をかけた。内の女は暫く身じろぎもしないでいたが、漸っとためらいがちに低く返事をした時、男ははじめてそれが誰であったかに気がついた。
「あなたでしたか。あの時雨の夜はかた時も忘れずになつかしく思っておりました」
男はわれ知らず少し上ずったような声を出した。
そうしてそのまま男は黙って返事を待っていた。遣戸の内からは、暫くすると女がこんな歌をかすかに口ずさむのが聞えて来た。
「なにさまで思ひ出でけむなほざりの木の葉にかけし時雨ばかりを」
その時その細殿の方へ履音を響かせながら、五六人の殿上人たちが男を追うようにやって来た。男はそれと殆ど同時に、遣戸の奥へ女がすべり込んで往くけはいに気がついた。
男は殿上人たちに拉せられながら、細殿の前に漂っていた丁子の匂を気にでもするように、その方を見返りがちに、再び履音をさせながら其処を立ち去って往った。
六
女が、前の下野の守だった、二十も年上の男の後妻となったのは、それから程経ての事だった。
夫は年もとっていた代り、気立のやさしい男だった。その上、何もかも女の意をかなえてやろうとしていた。