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ふじ

富士

岡本 かの子

「文芸」1940(昭和15)年11月号~1941(昭和16)年4月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 40,579 字 · 82 页

青空文庫

母体の山脈は、あとに退き、うすれ日に透け、またはむれ雲の間から薔薇色に山襞を刻んで展望図の背景を護っていた。

平野のどこからも眺められるその山は、朝は藍に、昼はよもぎ色に、夕は紫に色を変えた。山の祖神の翁は、夕の紫の山をいちばん愛した。

翁が、草の茵に座って、しずかにその暮山を眺めやるとき、山のむらさきから、事実、ほのかで甘く、人に懐き寄る菫の花の匂いを翁の嗅覚は感じた。

翁は眼を細めて

「山近し、山近し」

と呟いた。

その言葉は、翁が福慈神に近付くとき胸に叫んだと同じ言葉ではあるが、翁はただ呟いただけで山に急ぐこころは無かった。その山は急いで近寄らなければ様子が判らないというような山容ではなかった。離れて眺めているだけでも懐しみは通う山の姿、色合いだった。むしろ近付いたら却って興醒めのしそうな懸念もある遠見のよさそうな媚態がこの山には少しあった。

広野の中に刀禰の大河が流れていた。薦、水葱に根を護られながら、昼は咲き夜は恋宿という合歓の花の木が岸に並んで生えている。翁はこの茂みの下にしばらく憩って、疲れを癒やして行こうと思った。何に疲れたのか。もちろん旅の疲れもある。