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ちいさなできごと
小さな出来事
寺田 寅彦
「中央公論」1920(大正9)年
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 14,533 字 · 29 页
「どうぞ、御からだを御大事に」と云ったこの男の一言が、不思議に私の心に強く滲み透るような気がした。これほど平凡な、あまりに常套であるがためにほとんど無意味になったような言葉が、どうしてこの時に限って自分の胸に喰い入ったのであろうか。乞食の眼や声はかなり哀れっぽいものであったが、ただそれだけでこのような不思議な印象を与えたのだろうか。
嗄れた声に力を入れて、絞り出すように云った「どうぞ」という言葉が、彼の胸から直ちに自分の胸へ伝わるような気がすると同時に、私の心の片隅のどこかが急に柔らかくなるような気がした。そしてもう一度彼を呼び返して、何かもう少しくれてやりたいような気さえした。
黙って乞食の挙動を見ていた子供等は、彼が帰ってしまうと、額のきずや、片手のない事などを小声でひそひそと話し合っていたが、間もなく、それぞれの仕事や遊びに気を奪われてしまったようである。子供等の受けた印象は知る事は出来ない。
乞食は私の病気の事などはもとより知っているはずはなかった。おそらく彼は誰の前にも繰返すお定まりの言詞を繰返したに過ぎないだろう。ただそれがQの冷罵とペルゴレシの音楽とのすぐ後に出くわしたばかりに、偶然自分の子供らしいイーゴチズムに迎合したのかもしれない。