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やまのてのこ
山の手の子
水上 滝太郎
「三田文学」1911(明治44)年7月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 15,551 字 · 31 页
なかにも忘れられないのは古い錦絵で、誰の筆か滝夜叉姫の一枚絵。私が誕生日の祝い物に何が欲しいと聞かれて、あれと答えたので散歩がてらに父に連れられて行った時「これは売物ではございません」とむずかしい顔の亭主が言ってから亭主を憎いと思うよりも一層姫の美しい姿絵が懐かしくなった。その他そこらには呉服屋、陶器屋、葉茶屋、なぞがあったようだが私はそれらについて懐かしい何の思い出もない。坂下もまた絵双紙屋の側の熊野神社、それと向い合った柳の木に軒燈の隠れた小さな煙草屋のほかはやはり記憶から消えてしまったけれどもその小さな煙草屋の玻璃棚が並べられて、わずかに板敷を残した店先に、私の幼かった姿が瞭然と佇むのである。
私の生まれた黒門の内は、家も庭もじめじめと暗かった。さる旗本の古屋敷で、往来から見ても塀の上に蒼黒い樹木の茂りが家を隠していた。かなり広い庭も、大木が造る影にすっかり苔蒸して日中も夜のようだった。それでもさすがに春は植込みの花の木が思いがけない庭の隅々にも咲いたけれど、やがて五月雨のころにでもなろうものなら絶え間なく降る雨はしとしと苔に沁みて一日や二日からりと晴れても乾くことではなく、だだっ広い家の踏めばぶよぶよと海のように思われる室々の畳の上に蛞蝓の落ちて匍うようなことも多かった。