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おびひろまで
帯広まで
林 芙美子
「文藝春秋」1936(昭和11)年11月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 13,656 字 · 28 页
すぐ電話口で九太の声がした。
「誰? 伊代さん! ほう! 何時、何時来たの?」
「今日」
「今日?――どこに泊っているの?」
「駅のそばの北海館って云う宿屋、――私ね、いま働いているのよ」
伊代は浅草時代に返ったように胸がいっぱいであった。何か云いたかったけれど、胸に汐がつまったように苦しかった。九太は、館の前の蕎麦屋まで、いまじき来ないかと云った。伊代は合の外套を引っかけて宿屋を出て行った。雨が降りかけている。暗い四辻で俥をひろうと、Oと云う映画館の前の蕎麦屋に這入って行った。太い並木の影に、見覚えのある合の洋袴をはいた九太が伊代の後からのれんを掻きわけて這入って来た。
「おい」
「まア!」
お互いに向きあったが、逢えば涙で話も出来ないだろうと思っていた伊代は、眼のうちがばさばさに乾いていて涙も出なかった。九太は泣いてはいなかった。平凡な表情で「そう、今日来たの、長い道中で疲れたろう」と、何時でも話せそうなことを云った。黒い上着も陽に焼けたようであったし、洋袴にも折目がなかった。生活に疲れているのだろう。一年のうちに頬の肉がそげて見えた。伊代は、とっさに九太の生活が幸福でないことを嗅いだ。