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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

一

岡部順造は、喧嘩の余波で初めて秋子の姙娠を知った。

いつもの通り、何でもないことだったが、冗談半分に云い争ってるうちに、やたらに小憎らしくなってきて、拳固と肱とで秋子をこづき廻した揚句、ぷいと表へ飛び出してみたけれど、初夏の爽かな宵の空気に頭が落着くと、先刻からのことが馬鹿々々しくなり、秋子が可愛くなって、また家に帰ってきた。顔を膨らして長火鉢にしがみついてる彼女へ、変にむず痒いような心地で云いかけた。

「何をしてるんだい。」

「知りませんよ。」

つんと澄ました声だったが、もう刺を含んではいなかった。

順造は安心して火鉢の前に坐った。あたらずさわらずのことを二三言云った。秋子がなお言葉の上だけで対抗してくるので、僕が悪かったよとも云った、だから謝ってるじゃないかとも云った。

「可愛さの余りについ手荒なこともするんだよ。」

冗談だか真面目だか自分でも分らないその定り文句で、彼は一切の片をつけたつもりでいた。所がそれから二三分して、彼は秋子が涙ぐんでいるのに気付いて喫驚した。涙ぐんでる眼が鋭い光を放ってるのに、更に喫驚した。

「あなたはそれでいいでしょうけれど、私は……私、ただの身じゃないかも知れないと思ってる所じゃありませんか。