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かれはむかしのかれならず
彼は昔の彼ならず
「世紀」1934(昭和9)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 28,274 字 · 57 页
きっとよくない仕掛けがあるにちがいないと考えた。
「そうなんです。」杯をふくみながら、まだにやにや笑っていた。「けれども御心配は要りませんよ。」
「いいえ。」なるたけよそよそしくしてやるように努めたのである。「僕は、はっきり言いますけれど、この五円の切手がだいいちに気がかりなのです。」
マダムが僕にお酌をしながら口を出した。
「ほんとうに。」ふくらんでいる小さい手で襟元を直してから微笑んだ。「木下がいけないのですの。こんどの大家さんは、わかくて善良らしいとか、そんな失礼なことを言いまして、あの、むりにあんなおかしげな切手を作らせましたのでございますの。ほんとうに。」
「そうですか。」僕は思わず笑いかけた。「そうですか。僕もおどろいたのです。敷金の、」滑らせかけて口を噤んだ。
「そうですか。」青扇が僕の口真似をした。「わかりました。あした持ってあがりましょうね。銀行がやすみなのです。」
そう言われてみるときょうは日曜であった。僕たちはわけもなく声を合せて笑いこけた。
僕は学生時代から天才という言葉が好きであった。ロンブロオゾオやショオペンハウエルの天才論を読んで、ひそかにその天才に該当するような人間を捜しあるいたものであったが、なかなか見つからないのである。