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かれはむかしのかれならず

彼は昔の彼ならず

太宰 治

「世紀」1934(昭和9)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 28,274 字 · 57 页

青空文庫

「いいえ。」マダムは可笑しそうにしていた。

喧嘩をしたのにちがいないのだ。しかも、いまは青扇を待ちこがれているのにきまっている。

「しつれいしましょう。ああ。またまいります。」

夕闇がせまっていて百日紅の幹だけが、軟らかに浮きあがって見えた。僕は庭の枝折戸に手をかけ、振りむいてマダムにもいちど挨拶した。マダムは、ぽつんと白く縁側に立っていたが、ていねいにお辞儀を返した。僕は心のうちで、この夫婦は愛し合っているのだ、とわびしげに呟いたことである。

愛し合っているということは知り得たものの、青扇の何者であるかは、どうも僕にはよくつかめなかったのである。いま流行のニヒリストだとでもいうのか、それともれいの赤か、いや、なんでもない金持ちの気取りやなのであろうか、いずれにもせよ、僕はこんな男にうっかり家を貸したことを後悔しはじめたのだ。

そのうちに、僕の不吉の予感が、そろそろとあたって来たのであった。三月が過ぎても、四月が過ぎても、青扇からなんの音沙汰もないのである。家の貸借に関する様様の証書も何ひとつ取りかわさず、敷金のことも勿論そのままになっていた。しかし僕は、ほかの家主みたいに、証書のことなどにうるさくかかわり合うのがいやなたちだし、また敷金だとてそれをほかへまわして金利なんかを得ることはきらいで、青扇も言っ