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びしょう
微笑
豊島 与志雄
「雄弁」1919(大正8)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 20,995 字 · 43 页
何かが私達を其処に釘付にしてしまったのだ。そして私達と彼との距離は僅か五六間だったが、不思議なことには、彼と車掌とが交わした言葉は少しも私達の耳にはいらなかった。ただ彼の身振りだけがはっきり私達の眼の底に残った。俯向けた彼の顔は暗い影に包まれて見えなかった。
やがて電車は彼を残したまま進行し出した。
「怪我をしたのですか。」と乗客の一人が車掌に尋ねた。
「怪我は別にないと自分で云ってるから大丈夫でしょう。向うが悪いのです。」と車掌は答えた。
私達は妙に黙り込んでしまって、腰掛の上に首を垂れていた。
「私ほんとに喫驚したわ。あの人でしょう、例の男というのは。」と女は村瀬に囁いた。
「君達が余りうますぎたんだ。」と村瀬は云った。
「でも約束じゃないの。」
それには誰も答えなかった。そして私達は、それきり上野まで黙っていた。
「兎に角余り結果がよすぎたんだ。」と村瀬は公園下を歩きながら結論を下した。
女が何処かへ寄ろうと云うのを、またこの次にと云って私達は別れた。それにもうよほど遅くなっていた。私は一人で山下を池に沿って帰っていった。その時私は、腹立たしいのか、情けないのか嬉しいのか、訳の分らぬ心地になっていた。