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こころのかわ

心の河

宮本 百合子

「改造」1924(大正13)年6月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,442 字 · 37 页

青空文庫

そして、保夫の机の端に肱をついた。体は、畳から浮上って気味悪く高い庭へつり上ったかと思うと、眩暈につれて、低い低い、底なしの暗闇に沈み込むようだ。――

彼女は、静かに泣き出した。なま暖い涙は、掌を洩れ、手の甲を伝って、ぽたり、ぽたりと机の上に大きな滲みを作る。彼女は、その涙の奥に、幾年か忘れていた一つの光景を思い出した。

それは、彼女が生れて二十年育った家の湯殿であった。

四畳半ばかりの板敷きに畳表を置いた脱衣室の一方は、竹格子の窓になっている。下に、母の鏡台が置いてあった。鏡には、鼠色の地に雨と落花と燕の古風な模様がついた被いをかけてあった。その前で、夜の二時頃、ただならない気勢(けはい)でぴたぴた素足のまま起きて来たさよに、彼女の母が、

「さよちゃん、お父様と私と、何方が間違っているかよく聞いておくれ。私がどんな道理を云っても、お父様は、そらまた歇私的里(ヒステリ)だと相手になさらない。……何故、女になんか生れて来ただろう、どうせ一度しか生きもされない世の中だのに」

と泣いて訴えた有様であった。

母はあの頃三十四五であった。さよは、やっと十二三であった。